「ACじゃなかったらここの環境でもやっていけたはず」なんてことはない

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みなさん今日もおつかれさまです。藤村です。

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大学生くらいまでよく勘違いしていたのだけれど、馴染めない環境やひどい先輩、先生、知人に対して「もし私がACではなくて、心が健康だったら、馴染めていたのだろうな」と肩を落とすことが多かった。実際そう思わせる情報は今でも時々流れてくるし、場合によってはそうなのかもしれない。
けれど、現時点で私は「そんなわけないだろ」と思う。

昔、体育会系の部活に所属していたことがあった。その部活は部員が両手で数えられるほどしかいない弱小体制で、顧問の先生が絶対的な権力を持っている典型的な「ワンマン部活」だった。部員数が多くともワンマンをやってのける顧問はいくらでもいるけれど、やっぱり人数が少なければ少ないほどその「支配」力は強くなる。
もっとも意味不明だったのは、「顧問が教えている授業で毎年呼ばれる講師に、『手作りの』弁当を用意しなければならない」という風習。しかもなぜか「女性部員」のみがその役を引き受けることになっていた。当時、ガチガチのACで認知が歪みまくっている私にさえ「意味不明だな」と思わせるこの風習に、けれど誰1人として意義を唱える者はいなかった。おそらくこの風習は、今も平然と続いているのだろうと思う。

この風習の他にも、部員数に対して明らかにキャパが広すぎるホールを借りて公演を行わなければならなかったり(チケットは部員が予め平等に購入して手売りするスタイルであるため金銭的、心理的な負担がすごかった)、大会のための演目がほぼ固まっている状態で、ふらっとやってきた顧問がその構成を独断でがらっと変えてしまったり(曲すら変えられたりした。明らかに顧問の趣味に合わせられている感じだった)、無償で授業の手伝いをさせられたり(対価として授業成績を保証されたが、意味不明。なぜ授業の準備をしたら授業の評価が上がる?)、夜遅くになっても顧問が満足するまで練習させられたり、とにかくひどかった。

この環境に嫌気がさして、1年目の時点で退部する部員もちらほらといた。それが正しい判断だと思う。あの時に戻ってもう一度大学生をやれるのなら、この部活には絶対に入らないし近づかない。つまり当時の私はその部活を辞めなかったのだった。意味不明な慣習に身を委ねてしまっていた。

さて、こんな環境の部活は、「ACじゃなかったら大丈夫」だったのだろうか?
答えは明確で、「大丈夫なわけがない。ACじゃなかったら入部していないか、すぐにやめていたはずだ」である。
当時の私は、数少ない「辞めなかった部員」は皆健康な人たちなのだと思い込んでいた。だから「健康な人たちもいるわけだし、問題なのは顧問とか謎のルールではなくて、自分の感じ方なんだろうな」と思ってしまっていた。今思えば、そこに残っている部員たちは皆「おかしかった」のだ。ワンマンで部員たちのことを顧みず好き勝手に命令しまくる大人に対して異議も唱えず、というかむしろ慕っていた彼らの認識もかなりねじ曲がっていた。部員同士で「先生の言ってることおかしいよね」と言いあうこともないどころか、お互いに牽制しあうような、じっとりとした空気に満ちていた。こんな環境でも、ACじゃなかったら大丈夫だったのだろうか?そんなわけないだろう。

当時の私の一番の問題点は、「『何がおかしいのか?』を、自分軸ではなく他人軸で判断していたこと」なのだと思う。「私」は「おかしい、意味不明だ」と思いつつも、「他の人たち」が「大丈夫そう」だから、つまりおかしいのは「私」である、という結論を出してしまっている点にある。

今思い出したのだけれど、残っている部員の大半は「入試の時点でその顧問のゼミに入ることがほぼ決まっており、進学の時点で顧問と無関係になること(というか、部活を退部すること)が不可能な人」たちだった。つまり、彼らが部員として残っていたのは(彼らが意識しているかしていないかは別として)「辞められないしがらみがあるから」であって「大丈夫だから」ではなかったのだった。

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もうひとつエピソードがある。
私が部活をやめた次の年、その部活は急に部員数が増え、なんと大会で賞をとった。もういつから受賞していなかったんだか分からないくらい、賞とは無縁のチームだったのに。
そこで私はもう一度「やっぱり私がおかしかったんだ」と思ってしまう。この思い込みは今でもまだ完全に払拭できていない。それくらい衝撃的な出来事だったのだ。ただ、心がついてこないけれど、頭でははっきりと分かっている。「おかしいのは部活のほうであり、私ではない」。
少なくとも、「おかしい」と感じた私を否定すべきではないし、「ACだからおかしいと感じた、理不尽と感じた」わけではないと思う。むしろ「ACだから『おかしいと感じた自分』をおかしいと思ってしまった」のだ。

今振り返っても、やはりあのような環境に「適応」してしまう人たちは、どう考えてもまともではないのだと感じる。上記のエピソードを食らった時点で、普通の感覚を持っていたら(自分を大切にする人だったら)「この部活は危険だ」「この顧問は不快だ」と感じるはず。そこで堪えてしまったり、正当化して納得してしまう時点でその人の心は健康ではない。私がやめた後に活躍している部員たちについても同じことが言えるだろう(急に顧問が態度を変えたり慣習を変えたりすることはないので)。

不健康な心もたらす問題は「みんなが平気なことも自分だけ平気じゃなくなってしまう」ではなく、「自分が平気じゃないのに、その気持ちを否定してしまう」ところにあるのだと思う。同じ場所にいたとしても、一人一人が見ている景色は違う(しがらみのせいで部活を辞められない人たちがいたように)。だから、ACだったり心を病んでいる人たちは、「ACだから馴染めなかった、仲良くなれなかった、うまくやれなかった」と思わないでほしい。それは「健康な人であってもキツい状況」だったのだと思ってほしい。

もしそれでも「周りの人はうまくやっていたのに、私は……」と思ってしまうのだったら、まずは「周りの人」と「私」を切り離して考えてほしい。「周りの人」にとっては大丈夫な環境だった。それはさておき、「私」にとっては無理だった。それは「私がACだから、物事の感じ方が正常ではないから」ではなく、「私がそういう感じ方をする人間だから」と受け入れてほしい。そしてそれは悪いことではないことも胸に刻んでほしい。
もちろん認知が歪んでいるせいで、悪意のない発言も悪意があるととってしまうことはあるかもしれないけれど、前述したように「自分の感情を否定してしまう」ところに闇がある。まずやらなければならないのは、「悪いように感じてしまう自分を変えること」ではなく、「今の自分でも居心地がいい場所を探すこと」なのではないかと思う。

私もいま休職している職場について「他の人は楽しくやってるのになあ」と思ってしまうことがよくある。そこに寄せていけば、給料も高く、休みも取りやすく、都合がいいのになと思う。でも、誰のための都合なのだろうかと考えると、論理が破綻する。自分の都合のために、自分を無理やり変えようとすることは、果たして自分のためになるのだろうか? だから都合がいいからといって自分をその環境に「寄せ」てはならない。

ACじゃなかったらやっていけたわけではない。ACだからすぐに逃げられなかったのだ。ACだから自分を部活や会社やいろんな組織に「都合よく」合わせようとしてしまったのだ。その点を忘れずにいたいと思うし、そこで自分を責める人が1人でも減ればいいと思う。

藤村